前回の続き
先の文に進む。
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社傳に文治二年宮祠造営を加へられしよしをいへり、按に「東鑑」文治二年六月廿九日の條に、二品神社佛寺興行の事、日来の恩顧、且は京都に申され、東海道に於ては守護人等に仰せ、其国の総社并に国分寺破壊及尼寺顛倒の事を注せらる、是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば、是年当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし、又建久三年五月八日、法皇四十九日の佛事を修せられ、百僧供あり、其僧衆に六所宮二口と見ゆ、さればこの祠の社僧預りしことなるべし、其後寛喜四年二月拝殿破壊に因て修理の議あり、武藤左衛門尉資頼奉行すと云々、此等に据れば其頃将軍家の崇敬自らしるべし、
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今回はここまで読むことにしたい。
以下より、原文対比で内容を解説する。
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原文
社傳に文治二年宮祠造営を加へられしよしをいへり、
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意味
社伝に、文治2年に宮の造営をしたと書いてある。
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原文
二品神社佛寺興行の事、日来の恩顧、且は京都に申され、東海道に於ては守護人等に仰せ、其国の総社并に国分寺破壊及尼寺顛倒の事を注せらる、是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば、是年当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし、
二品 → ニホンと読む 源頼朝のこと文治元年に従二位に昇叙している。
恩顧 → 目をかけている者。ここでは家来の意と思われる。
京都 → 朝廷を指すと思われる。
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意味
頼朝から神社やお寺をきちんと直すように、家来や朝廷、東海道においては守護人に伝えた。その国の総社、国分寺および国分尼寺が破壊されていることを指摘した。その一環として、社伝でいうようにこの年当社も修造されたのだろう。
と、いうことなのだが、吾妻鏡の原文では以下のようになっている。
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吾妻鏡原文
文治二年(1186)六月小九日乙卯。去四月之比。政道事。殊可致興行之趣。付議卿令 奏聞給了。 勅答之條々。執職事目録。師中納言被進之。今日所到來也。
條々
一 諸社諸寺修造事
於神社者大概被付國訖。諸寺尤大切。東寺以下殆如無其跡。如此令申旨可然事也。早可計仰之由。被申攝政訖。
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上記はだいたい以下のような内容である。
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吾妻鏡意味
文治2年(1186)6月9日 (頼朝が)4月頃に、政治のことについて、推進するべき内容を参議を通して後白河法皇に申し上げた。後白河法皇の返答を役人が書き出したものを、吉田経房から頼朝様に送ったものが、今日到着した。
一 神社仏閣の修造について
神社について、ほぼ全て国衙に修理するように命令した。寺も大切である。東寺を始め、痕跡が判らないほど荒れている。(頼朝が)その様に云って来ることは尤もである。迅速に対応するように摂政兼実に命じた。
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つまり、源頼朝から後白河法皇に、政治についての話があった。その中に全国の神社や寺をきちんと修繕しなくてはならないという話があったのであろう。
それに対する返事は、頼朝が言うことはもっともなので、それぞれの国衙(コクガ 現在の県庁)に修繕を命じるというわけだ。
新編武蔵風土記稿の方は、若干意訳されているようではあるが、大意は同じである。
しかし、吾妻鏡を素直に読むなら、全国の神社を直すようにしたというだけなので、必ずしも文治2年に六所宮を修造したとは言えず、「恐らくそういうことであろう」という推察にとどまる。
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原文
又建久三年五月八日、法皇四十九日の佛事を修せられ、百僧供あり、其僧衆に六所宮二口と見ゆ、さればこの祠の社僧預りしことなるべし、
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意味
建久3年5月8日に、後白河法皇の四十九日の法要があった。百名の僧が集まり、その中に六所宮二口と書いてある。当社の僧も参加したようだ。
こちらは吾妻鏡の原文とは相違があって原文と大意は以下となる。
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吾妻鏡原文
建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇四十九日御佛事。於南御堂被修之。有百僧供。早旦各群集。布施。口別白布三段。袋米一也。主計允行政。前右京進仲業奉行之云々。
僧衆。
鶴岡廿口 勝長壽院十三口 伊豆山十八口
筥根山十八口 大山寺三口 觀音寺三口
高麗寺三口 六所宮三口 岩殿寺二口
大倉觀音堂一口 窟堂一口 慈光寺十口
淺草寺三口 眞慈悲寺三口 弓削寺二口
國分寺三口也
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吾妻鏡意味
後白河法皇の四十九日の法要行った。場所は南御堂勝長寿院。僧侶は百人よる法要で、早朝から集った。お布施は僧侶一名あたり白布三反と米一袋。主計允(藤原)行政と(中原)右京進仲業が奉行をした。
僧衆。
鶴岡 二十人 勝長寿院 十三人 伊豆山十八人
箱根山 十八人 大山寺 三人 觀音寺三人
高麗寺 三人
六所宮 三人、岩殿寺 二人
杉本寺 一人 岩窟不動 一人 慈光寺十人
浅草寺 三人 真慈悲寺 三人 勝福寺 二人
国分寺 三人
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以上から、新編武蔵風土記稿と吾妻鏡で相違があることが判る。
それは六所宮の出した僧の人数であるが、これは恐らく単純ミスである。
また、吾妻鏡の解釈がいささか粗雑な点がある。
これは、吾妻鏡に書かれた「六所宮」を単純に「武蔵の六所宮」であると読んでいることである。
ここは、吾妻鏡には六所宮としか記載がないため、相模の六所宮の可能性があることは無視できない。北条政子の出産の件のように「武蔵六所宮」との記載ではない。また、前後の文脈からは必ずしも、武蔵の六所宮であると判断できないのである。
むしろ文章から推測するという観点でいえば、
前々回に書いたように、単に「六所宮」と書いてある場合に、相模の六所宮を示していると明確に推定できる例があり、北条政子の件に関してはそれと区別するために「武蔵六所宮」と書いた可能性もある。仮にそうだとすると本件における「六所宮」は相模の六所宮の可能性が高いといえるのである。
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原文
其後寛喜四年二月拝殿破壊に因て修理の議あり、武藤左衛門尉資頼奉行すと云々、
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意味
寛喜4年2月 拝殿が破壊したので修理の必要が出たため、武藤左衛門尉資頼が奉行したなどとの記載もある
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そして、吾妻鏡の記載は以下の通り。
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吾妻鏡原文
寛喜四年(1232)二月大廿四日乙亥。武藏國六所宮拝殿破壞。有修造之儀。武藤左衛門尉資頼奉行之。------
原文のままでも、これは判りやすい。
武蔵国の六所宮の拝殿が壊れたので修理した。奉行は
武藤左衛門尉資頼である。
ここでは、明確に「武藏國六所宮」との記載があるので、現在の大国魂神社であることに間違いない。------
原文
此等に据れば其頃将軍家の崇敬自らしるべし、
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意味
これらから、その頃の将軍家(鎌倉幕府の将軍家)の崇敬があったことが判るはずだ。
というように、新編武蔵風土記稿は結論づけている。
次回に続く。