本部役員会

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    六社会本部役員会が19時より。
    総会の打ち合わせ。



    提灯しらべ その他

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      2/26

      本日は提灯しらべ。
      昨年、例大祭自粛のため破損した提灯は少なかった。
      提灯調べの間に、速達でくじの宮の太鼓の見積もりが届いたので、関係者に展開。

      その後、11時から梅祭りのお菓子袋詰めを行う。
      そして買い物の残りを済ませるため、南町の生協へゆく。
      総菜コーナーで必要な物を注文し、案内状の残りを渡しに回る。
      無事に済ますことが出来たので、遅めのお昼を食べに松里家さんへゆく。

      夕刻より囃子練習を番場屋さんにて。


      梅祭りの準備

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        梅祭りの旧御本社渡御の準備。

        朝7時半に某所へ買いだしにゆく。
        酒類と子供たちへのお菓子を中心に必要なものを買って回る。
        雨が強く降っていたため車への積み卸しに難儀した。

        帰宅後、くじの宮の太鼓の修理費用概算を確認。
        予定より大きな金額となる。


        日本書紀 古事記

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          日本書紀や古事記は読んだことがあるだろうか?
          日本人なら当然のこと・・・とまではいわないが、一読をお勧めする。
          なにも原文ではなくていい。現代語訳で十分である。

          読みやすいのは古事記の方で、今はこんなのも出ている。


          もっとも、萌えでなくとも、古事記の方が物語的な要素が強いので楽しめるだろう。

          ただ、1点気をつけて欲しいのは、どんな本を手に取るにしても解釈や注釈については鵜呑みにしないで欲しいということだ。

          と、いうのは、解釈には訳者の主観が相当入っているものがある。
          例えば、日本書紀に出てくる言葉をやたら朝鮮語と結びつけていたりするが、こうした解釈は誤っているからだ。
          日本書紀や古事記の成立した奈良時代に朝鮮という国はない。高句麗、新羅、百済が並立していた時代だ。
          そして、現在において朝鮮半島渡呼ばれる地域で、日本の奈良時代の頃にどのような言葉が使われていたかは断片的情報しか無い。いや、奈良時代どころか、15世紀以前に彼の地域でどのような言葉が使われていたかはわかっていないし、現在の韓国・朝鮮語と同一であるとは言い難いのである。

          歴史をほじくるには論理的な思考が大切である。




          新編武蔵風土記稿を読む その8

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            前回の続き

            先の文に進む。

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            社傳に文治二年宮祠造営を加へられしよしをいへり、按に「東鑑」文治二年六月廿九日の條に、二品神社佛寺興行の事、日来の恩顧、且は京都に申され、東海道に於ては守護人等に仰せ、其国の総社并に国分寺破壊及尼寺顛倒の事を注せらる、是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば、是年当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし、又建久三年五月八日、法皇四十九日の佛事を修せられ、百僧供あり、其僧衆に六所宮二口と見ゆ、さればこの祠の社僧預りしことなるべし、其後寛喜四年二月拝殿破壊に因て修理の議あり、武藤左衛門尉資頼奉行すと云々、此等に据れば其頃将軍家の崇敬自らしるべし、
            ------
            今回はここまで読むことにしたい。
            以下より、原文対比で内容を解説する。
            ------
            原文
            社傳に文治二年宮祠造営を加へられしよしをいへり、
            ------
            意味
            社伝に、文治2年に宮の造営をしたと書いてある。

            ------
            原文
            二品神社佛寺興行の事、日来の恩顧、且は京都に申され、東海道に於ては守護人等に仰せ、其国の総社并に国分寺破壊及尼寺顛倒の事を注せらる、是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば、是年当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし、

            二品 → ニホンと読む 源頼朝のこと文治元年に従二位に昇叙している。
            恩顧 → 目をかけている者。ここでは家来の意と思われる。
            京都 → 朝廷を指すと思われる。
            ------
            意味
            頼朝から神社やお寺をきちんと直すように、家来や朝廷、東海道においては守護人に伝えた。その国の総社、国分寺および国分尼寺が破壊されていることを指摘した。その一環として、社伝でいうようにこの年当社も修造されたのだろう。

            と、いうことなのだが、吾妻鏡の原文では以下のようになっている。
            ------
            吾妻鏡原文
            文治二年(1186)六月小九日乙卯。去四月之比。政道事。殊可致興行之趣。付議卿令 奏聞給了。 勅答之條々。執職事目録。師中納言被進之。今日所到來也。

            條々

            一 諸社諸寺修造事

            於神社者大概被付國訖。諸寺尤大切。東寺以下殆如無其跡。如此令申旨可然事也。早可計仰之由。被申攝政訖。
            ------
            上記はだいたい以下のような内容である。
            ------
            吾妻鏡意味
            文治2年(1186)6月9日 (頼朝が)4月頃に、政治のことについて、推進するべき内容を参議を通して後白河法皇に申し上げた。後白河法皇の返答を役人が書き出したものを、吉田経房から頼朝様に送ったものが、今日到着した。

            一 神社仏閣の修造について

            神社について、ほぼ全て国衙に修理するように命令した。寺も大切である。東寺を始め、痕跡が判らないほど荒れている。(頼朝が)その様に云って来ることは尤もである。迅速に対応するように摂政兼実に命じた。
            ------

            つまり、源頼朝から後白河法皇に、政治についての話があった。その中に全国の神社や寺をきちんと修繕しなくてはならないという話があったのであろう。
            それに対する返事は、頼朝が言うことはもっともなので、それぞれの国衙(コクガ 現在の県庁)に修繕を命じるというわけだ。

            新編武蔵風土記稿の方は、若干意訳されているようではあるが、大意は同じである。
            しかし、吾妻鏡を素直に読むなら、全国の神社を直すようにしたというだけなので、必ずしも文治2年に六所宮を修造したとは言えず、「恐らくそういうことであろう」という推察にとどまる。


            ------
            原文
            又建久三年五月八日、法皇四十九日の佛事を修せられ、百僧供あり、其僧衆に六所宮二口と見ゆ、さればこの祠の社僧預りしことなるべし、
            ------
            意味
            建久3年5月8日に、後白河法皇の四十九日の法要があった。百名の僧が集まり、その中に六所宮二口と書いてある。当社の僧も参加したようだ。

            こちらは吾妻鏡の原文とは相違があって原文と大意は以下となる。
            ------
            吾妻鏡原文
            建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇四十九日御佛事。於南御堂被修之。有百僧供。早旦各群集。布施。口別白布三段。袋米一也。主計允行政。前右京進仲業奉行之云々。

            僧衆。

             鶴岡廿口    勝長壽院十三口 伊豆山十八口
             筥根山十八口  大山寺三口   觀音寺三口
             高麗寺三口   六所宮三口   岩殿寺二口
             大倉觀音堂一口 窟堂一口    慈光寺十口
             淺草寺三口   眞慈悲寺三口  弓削寺二口
             國分寺三口也  
            ------
            吾妻鏡意味
            後白河法皇の四十九日の法要行った。場所は南御堂勝長寿院。僧侶は百人よる法要で、早朝から集った。お布施は僧侶一名あたり白布三反と米一袋。主計允(藤原)行政と(中原)右京進仲業が奉行をした。

            僧衆。

             鶴岡 二十人 勝長寿院 十三人 伊豆山十八人
             箱根山 十八人 大山寺 三人 觀音寺三人
             高麗寺 三人 六所宮 三人、岩殿寺 二人
             杉本寺 一人 岩窟不動 一人 慈光寺十人
             浅草寺 三人 真慈悲寺 三人 勝福寺 二人
             国分寺 三人
            ------
            以上から、新編武蔵風土記稿と吾妻鏡で相違があることが判る。
            それは六所宮の出した僧の人数であるが、これは恐らく単純ミスである。

            また、吾妻鏡の解釈がいささか粗雑な点がある。
            これは、吾妻鏡に書かれた「六所宮」を単純に「武蔵の六所宮」であると読んでいることである。
            ここは、吾妻鏡には六所宮としか記載がないため、相模の六所宮の可能性があることは無視できない。北条政子の出産の件のように「武蔵六所宮」との記載ではない。また、前後の文脈からは必ずしも、武蔵の六所宮であると判断できないのである。
            むしろ文章から推測するという観点でいえば、前々回に書いたように、単に「六所宮」と書いてある場合に、相模の六所宮を示していると明確に推定できる例があり、北条政子の件に関してはそれと区別するために「武蔵六所宮」と書いた可能性もある。仮にそうだとすると本件における「六所宮」は相模の六所宮の可能性が高いといえるのである。

            ------
            原文
            其後寛喜四年二月拝殿破壊に因て修理の議あり、武藤左衛門尉資頼奉行すと云々、
            ------
            意味
            寛喜4年2月 拝殿が破壊したので修理の必要が出たため、武藤左衛門尉資頼が奉行したなどとの記載もある
            ------
            そして、吾妻鏡の記載は以下の通り。
            ------
            吾妻鏡原文
            寛喜四年(1232)二月大廿四日乙亥。武藏國六所宮拝殿破壞。有修造之儀。武藤左衛門尉資頼奉行之。

            ------
            原文のままでも、これは判りやすい。
            武蔵国の六所宮の拝殿が壊れたので修理した。奉行は武藤左衛門尉資頼である。

            ここでは、明確に
            「武藏國六所宮」との記載があるので、現在の大国魂神社であることに間違いない。

            ------
            原文
            此等に据れば其頃将軍家の崇敬自らしるべし、
            ------
            意味
            これらから、その頃の将軍家(鎌倉幕府の将軍家)の崇敬があったことが判るはずだ。

            というように、新編武蔵風土記稿は結論づけている。

            次回に続く。



            太鼓の修理と六社会支部新年会

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              太鼓の修理の相談に宮本卯之助商店から実物を見に来てもらった。

              町内の子供の太鼓だが、大きさはちょうど2尺。
              元々は先日お祭りのあった「くじの宮」の太鼓で、今は町内の管理となっている。
              太鼓は明治26年制作。

              台車は昭和42年に新調している。八幡町の「車丑」制作。
              条件を話して詳細見積もりをお願いする。

              夜は六社会の御本社一之宮支部新年会。
              皆様お疲れ様でした。


              FinePix F31fd fuji

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                FinePix F31fd 富士フイルム
                http://dc.watch.impress.co.jp/cda/review/2009/03/11/10396.html

                630万画素
                1/1.7型スーパーCCDハニカムHR VI
                光学3倍ズーム
                F値はF2.8〜F5
                ISO感度はISO3200相当まで上げられる。
                35mm換算で36mmから108mm相当。
                一部では生産中止後に神機とまで呼ばれて、オークションなどで高値をつけていた。

                写真左がF31fd
                写真左がF31fd
                上面

                バッテリー容量が非常に大きく、いくらでも撮れてしまう。
                現在は予備として使用しているが、現在メインで使用しているF200EXRに対して性能的に劣る感じはしない。

                「高級写るんです」が完成しつつあった機種だと思う。
                F710と比べて、AUTO設定でもかなり撮れてしまうので必然的に撮影枚数が増えてしまった。
                2Gのメモリーカードと組み合わせて相当な枚数を撮ったが、持ち歩いて普段使いするには最高だと思う。


                本宿の初午

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                  2/12

                  本宿にある稲荷神社の初午にお邪魔した。

                  日本酒やら豚汁やら、だいぶご馳走になってしまい。
                  太鼓も触らせてもらって、個人的にはこれが本年の初叩き。

                  本宿の皆様、ありがとうございました。


                  くじの宮例祭

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                    2/11

                    くじの宮のお祭り。
                    元々は2月8日をお祭りにしていたが、現在はこの祝日にお祭りを行っている。

                    くじの宮とは䰗之宮(環境依存文字 「とうがまえ」または門構えの中に亀)と書く。
                    番場の中の古い家で、元は11軒ほどの家が世話人をしている神社である。
                    今は花蔵院の中にあるが、元は社地を持っていてその土地を人に貸したり、神社の資金を貸し付けているなど、無尽講の性質を持つ集まりでもあった。

                    元は下河原の方にあって本町の人が管理していたという説もあり、いつ頃から番場の人間が世話をしているのかもすでに判らない。

                    宮の名前はもとは「公事」の字を当てたともいい、その由来は諸説ある。
                    御祭神も不明で、水争いの犠牲者を祀ったものとか、公事とは裁判を意味することから、公儀へ直訴した、または裁判を行った人を祀ったなどの説がある。

                    公事の字を当てたことから、昔は徴兵から逃れたい人が願をかけたともいい、「䰗」はくじ引きの籤に通じることから、宝くじ等のくじ引きにも縁があるという。

                    ただし、お願い事をするときは、資金の貸し付けをしていたというほど現実的な神社なので、お賽銭はきちんと上げる方が良いだろう。


                    新編武蔵風土記稿を読む その7.5

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                      前回の続き

                      前回書いたとおり、ちょっと今回は脱線する。

                      まず、ある程度の信憑性がある資料に基づいて、「六所宮」つまり現在の府中の大国魂神社の歴史がどこまで遡れるのかという点において、現状確認されている範囲で紹介しておきたい。

                      前回書いたように、現存する資料に武蔵の六所宮が初めて出てくるのは「吾妻鏡」(あづまかがみ 「東鑑」とも書く)で、これは鎌倉時代に成立した、いわば鎌倉幕府編纂の歴史書である。
                      こうした歴史書の常で、当時の権力者に都合よく書かれている面は否めない。しかし、公式の歴史書といってよく、また記録された事象の発生から時間がたっていない時期に書かれているので、鎌倉時代を調査する際にはまず第一に引っぱってくる資料でもある。
                      吾妻鏡には治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの鎌倉幕府の事績について記載があって、この中での寿永元年8月11日の北条政子出産に関する記載が、武蔵の六所宮を特定する資料としてはもっとも古い記述であるといえよう。

                      また、源頼義および義家と六所宮の関わりとしては、源威集(南北朝時代後期成立)にも記載があり、古くは南向きであった六所宮を北向きになおさせたとしている。これは、奥州合戦の援護のためだとされている。
                      ただし、源威集は前述の通り南北朝時代後期成立で、西暦でいえば1300年代後半のものである。この点、1000年代半ばの人物である頼義や義家の時代とは300年ほどの差があるため、資料的価値がないとはいえないものの、史実であるかどうかは不明である。

                      これは、現在の私が元禄時代の頃のことを書いても、あまり信憑性がないというのと同じである。
                      しかし、こうしたものは読み方が大切であって、実際に六所宮を北向きにしたのが頼義・義家親子であるかは定かではないものの、少なくとも14世紀には六所宮が北向きになっていたことはまず間違いがないといえよう。


                      またその反対に、大国魂神社に関連する古い記述を紹介する中に、惣社(総社)としての初見は承徳3年(西暦1099年)の「時範記」(じはんき)に記載があるとする文が散見されるが、これは誤解を招く表現、あるいは錯誤を期待した誘導にもなりかねないので注意が必要である。

                      そもそもこの時範記とは、平時範(たいらのときより)の日記であって、承保2年(1075年)から嘉承3年(1108年)にかけて書かれていることが確認されているものの、自筆原本は現存せず、写本もその一部のみが分散して現存するという品である。
                      そしてこの日記は、平時範(たいらのときより)が因幡守(いなばのかみ)として赴任した時の記録であって、これに出てくる惣社とは武蔵府中の大国魂神社のことではなく、因幡国の惣社である。
                      つまり、「この頃には因幡国に惣社(総社)というものがあったという記録が残っているので、他の国にも同じようなものがあったに違いない」という類推が可能であるという意味に過ぎないのであるが、こうした点は文章の書き方で誤解が生じやすく、またそれが一人歩きをはじめるとおかしなことになる。


                      また他の例として、吾妻鏡に治承4年(1180年)10月16日の出来事としてこうした記載がある。
                      「(前略)13日に平家の大軍が平維盛を大将として富士川に攻め寄せてきたので、頼朝は駿河国に向けて出発した。今夜「六所宮」に到着して当国(相模国)の早川庄を箱根神社に寄進・・云々(後略)」
                      六所宮と出ているが、これは位置関係からして相模の六所宮のことである。こちらも六所神社として今も存在している。吾妻鏡の流れを読むと、前日の15日に頼朝は鎌倉にいる。従って武蔵国府を経由して駿河に向かうのは無理がある。

                      前回の源頼朝が六所宮に参詣したのも治承4年の出来事なのだが、その話と上記の話を無理やり繋げて傍証だとする記事を目にすることもあるが、きちんと読めばこのようなことはありえない。
                      文章を読む際に、ただ単語だけを拾い上げると事実誤認をすることがあるので気をつける必要があるのはもちろんだが、逆に由緒書きなどには、こうした点を意図的に誤読することによって由緒書きなどに箔づけをしている例があるので注意が必要である。


                      こうした類推をすることや過去の記述の誤解を見つけ出すのも、こうした歴史をひもとくおもしろさの一つではあるので、例として紹介しておく。

                      さて、本線に戻って次に進む。

                      続く


                      大国魂神社-くらやみ祭り-祭り好きの隠れ家

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